コラム
COLUMN in a monthly

ビジネスに活かす
メンタルトレーニング

本稿は自動車雑誌連載記事です。

第5回 前後際断

 私がメンタルトレーニングを指導している選手の一人に、阪神タイガースの下柳剛投手がいます。下柳投手は2005年、15勝3敗というみごとな成績を残し、広島カープの黒田投手と並んで最多勝のタイトルを獲得しました。そして彼のタイトルには、もう一つおまけがつきました。それはプロ野球史上最年長の最多勝投手というものです。彼はその時(2005年当時)、37歳になっていたのです。

 私が下柳投手を指導するようになったのは2001年からですので、2005年当時で5シーズンが経過しました。当初、彼は日本ハムファイターズに在籍していましたが、2003年に阪神に移籍しました。その前のシーズンは、故障でほとんど登板機会もなく、35歳という年齢を考えれば引退も考えざるを得ないところまで追い込まれていたのです。
 2003年というのは、星野監督がタイガースを18年ぶりの優勝に導くことになる年です。その2月、沖縄でキャンプ中だった下柳投手から、私に電話がかかってきました。彼はプロ入り以来、ダイエー、日本ハムとパ・リーグのチームでプレーしてきた選手です。私もこれまでいろいろなチームのキャンプに呼ばれてきましたが、確かにセ・リーグとパ・リーグでは、キャンプでもお客さんの数がまったく違うのです。パ・リーグのキャンプは、平日だと100人ほどしか観客がいないことだって珍しくありません。
 ところが星野フィーバーで沸く阪神のキャンプは、一万人を超えることもざらだというのです。パ・リーグで育った下柳投手は、この異様な雰囲気にびっくりしたようです。彼は電話でこう言いました。「先生、キャンプでこれですから、開幕して甲子園で巨人相手に投げることを想うと、今から緊張しちゃいますよ。何かあったら、電話で相談してもいいですか」。それ以来、彼とのやりとりが始まりました。

 2003年のシーズンが開幕して二ヶ月ほど経った頃、順調に勝ち星を重ねていた下柳投手から、こんな電話が入りました。「先生、何かいい本はないですか。先生の書かれた本は、ほとんど暗記するほど読んでいますけど、僕たち先発投手は、中5日ぐらいのペースで投げますから、けっこう時間があるんですよ。何かピッチングに役に立つような本はないですかねえ」。
 こうした彼の問いに、私は次のように答えました。「ああ、それだったら沢庵禅師が書かれた『不動智神妙録』というのがあるから、あれを読むといいよ。沢庵さんは、吉川英治の小説の世界では、宮本武蔵の心の師匠ということになっているけれど、実はあれはフィクションで、本当は柳生宗矩の先生だったんだ。つまり、当代きっての兵法者に禅の心を説いたわけだ。現代語訳で読めるし、きっとピッチングのヒントになる言葉が見つかると思うよ」。
 それから一週間ほど後に、再び下柳投手から電話がありました。「先生、ありました。先生が気づかせたかったのは、"前後際断"という言葉じゃないですか。前というのは終わってしまった過去のこと、後というのは未来のこと、どちらも気に病んだり不安がったりしたんでは、集中できなくなってうまくいきませんよねえ。ピッチングも結局、一球一球の積み重ねですから。この言葉を忘れないようにグローブに刺繍することにします」。
 沢庵禅師の原文では、「前後際断と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きってのけよと云う心なり。是を前後の際を切りて放せという義なり。心をとどめぬ義なり」となっています。
 あれから3シーズンが経ちました。今でも下柳投手のグローブには、「前後際断」の四文字がきれいに刺繍されています。彼は2003年に10勝を挙げ、星野阪神の優勝に大きく貢献しました。2004年は10勝3敗。そして2005年は冒頭でも述べましたように、15勝3敗で最多勝投手に輝きました。

「前後際断」。この言葉を、下柳投手のひょうひょうと投げ続ける彼のマウンドさばきと重ねてみていただければ幸いです。

コラム一覧

連載「ビジネスに活かすメンタルトレーニング」
  • 講演録・イベントレポート
  • PAGE TOP

    c2013 Yutaka SHIRAISHI