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メンタルトレーニング

本稿は自動車雑誌連載記事です。

第7回 野球版「無我の境地」

 私たちはさまざまな思いに心が揺れ、悩みます。悩むという行為は地球上にいる生物で人間だけに与えられた「特権」でもあります。動物と違い、人間には過去を振り返る能力があり、過ぎ去ったことを思い出して悲しくなったり、嬉しくなったり、また、未来に対して期待に胸をふくらませたり、逆に不安におびえたりするのです。

 今を生き続けていながら、過去や未来に思いをはせることができる人間ですが、これが心を複雑にしています。わかりやすく言えば、食べるという動詞を使うとき、「私は食べる」は「I eat」、それに助動詞をつけ「私は食べることができる」は「I can eat」、「食べなければならない、だから食べる」ならば「I must eat」です。さらに「I will(食べたい)」「May I(食べてもいいかな)」「Shall I(食べるべきかな)」というように、人間にはcan、must、will、may、shallといった五つの助動詞があります。
 ところが動物は、生きるために食べねばならないから食べるだけ、mustとcanの助動詞ふたつしかありません。私たちがライオンの前を通り過ぎたとしても満腹ならば襲いかかられることなどありません。しかし人間の場合は、たとえ満腹になっていてもデザートが出てくると食べてみようかという気になります。逆にお腹がすいていてもダイエットのために食べるのを我慢する場合もあります。
 人間のこうした側面を「なすべきか、なさざるべきか、それが問題だ」と、ハムレットがみごとに言いあらわしています。悩むというのは人間の特権ですが、勝負においてはパフォーマンスが落ちるので禁物です。人間的にはすばらしい真面目な選手があれこれ考えすぎ悩みの泥沼にはまって抜け出せないことがよくあり、私はそういう選手たちに「勝負するときにはライオンやヒョウになれ。そして試合が終わったら人間に戻ってよく考え反省するべきだ」と言うことにしています。

 こうした観点から、現役時代にめっぽう勝負強かった長嶋茂雄さん(前読売巨人軍監督)のことをあらためて考え直してみました。すると、「ひょっとして長嶋さんは、勝負どころになると人間をやめて動物になれたのではないのだろうか」という思いが浮かんできました。つまりチャンスに登場する選手の多くは、「なんとか打ちたいなあ。でももし打てなかったらどうしよう」などといった期待や不安をかかえながらバッターボックスに入るのが普通です。ところが、ここ一番というときに自在に動物に変身できる長嶋さんは、「打たなければいけないから打つだけだ」という何とも単純きわまりない思いで、ボールに向かっていけたのではないでしょうか。

 私の手元に『長嶋語録集』があります。その中には、長嶋さんの勝負強さの秘密をうかがわせる記述がたくさんありますが、次の長嶋語はそれを代表するものではないでしょうか。「球がスーッと入ってくればガンと打つ。きょうのホームランは3本ともそれですよ。ヤマをかけず、打率のことも考えず、スーッとくればガン。これですよ」
 これは昭和37年7月19日の中日とのダブルヘッダーで、それまで打撃不振にあえいでいた長嶋さんが、突如3本のホームランをかっ飛ばし、強烈に復活をアピールした直後の言葉です。シンプル・イズ・ベストとは、まさにこのことを言うのでしょう。言い方を換えれば、野球版「無我の境地」といってもよいでしょう。

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