コラム
EVENT REPORT

講演録
イベントレポート

第129回紀伊国屋サザンセミナー
会場:紀伊国屋サザンシアター

『夢をかなえるコツ』出版記念講演会 講演録 第一部(2/4)

メンタルトレーニングとの出会い

私はミュンヘンでオリンピックが行われた1972年に、東京教育大学の体育学部に入学することができました。国立大学で唯一体育学部がある大学でしたが、それ以上に体操競技では、歴代ゴールドメダリストを輩出し続けてきた超名門校でもありました。私の目の前では、ミュンヘンオリンピックで個人総合二連覇を遂げることになる加藤澤男さんが練習されていました。加藤さんは私と7つ違いの先輩ですが、オリンピックに三度出場して、なんと金メダルを8個も獲得した方です。

そんなすばらしい環境の中で練習を始めた私は、あるとき練習ではうまくいくのに、本番になると失敗してしまう自分に気づくことになります。つまり、本番のプレッシャーで硬くなってしまって、うまくいかないのだということがわかったのです。しかし、今から41年前のことです。当時、日本にはメンタルトレーニングという言葉もありませんでした。  いろいろ調べているうちに、すでに1950年代からソビエトでは国家ぐるみで、心をトレーニングする研究が始まっているということがわかったのです。さらに調べを進めると、今から80年ほど前にドイツのシュルツという精神科医が開発した「自律訓練法」に行き当たりました。この自律訓練法は、1930年代から主に医療的な分野で利用され、高い評価を受けてきたものです。つまりストレスからくる自律神経系の失調症やノイローゼ、あるいは不安神経症などの治療に用いられてきたものです。さらに最近では、ビジネスやスポーツのような場面において、それぞれの目標達成をより効率的に行う狙いで、健康な人たちにも自律訓練法を処方するということが多くなってきています。

具体的には、仰向けになったり、楽な姿勢で腰掛けて目を閉じ、まず次のような暗示公式を用いて、われわれの筋肉が弛緩した時の一つの指標である「重い感じ」を得ようとするのです。例えば、息をゆっくりと吐きながら、心の中で「右腕が重くなる」、「右腕が重くなる」という暗示公式を唱え、それによって右腕のリラクゼーションを導いていく方法です。そして右腕、左腕、右足、左足、両手、両足、全身という風に「重い感じ」が出てきたら、今度はそれに加えて「温感」、すなわち「右腕が重く温かい」という練習に入り、次第に「全身が重く温かい」という練習に進むわけです。

さて、当時の私は、「いったい誰にこの自律訓練法を教わったらいいのだろうか」という問題に最初に突き当たりました。1972年当時、日本にはまだスポーツ心理学会すらなかった時代です。どうしたものかと思いあぐねて、さらに大学全体のカリキュラム表を調べてみたわけです。すると教育学部で教育心理学を担当されていた大野清志という先生が、『心理療法の理論と技術』という講義を毎週水曜日の二時間目に開いているということがわかりました。さらに幸いなことに、その講義の解説には、「自律訓練法、自己催眠、他者催眠、リラクゼーション、イメージコントロール法などを講義する」と書かれてあったのです。

心の中でしめたと思った私は、早速その足で大野先生の研究室に向かいました。何のアポイントメントもとらずにドアをノックし、いきなり「実は体育学部一年の白石と申しますが、自律訓練法を教えていただけませんでしょうか」と言ったわけですから、まったくいい度胸をしていたものだと思います。  大野先生もさすがにびっくりされたようで、「確かに私は自律訓練法について講義しています。またノイローゼとか対人恐怖、赤面症、といった症状を訴える人の治療に自律訓練法を使っています。でも、スポーツに使うとはねえ。スポーツもそういう時代になりましたか」と面白そうに言われました。それで毎週水曜日の午後1時から、一対一で個別に教えてくださることになったのです。  それからは先生から与えていただいた課題、つまり「右腕が重くなる」などを心の中で唱えるトレーニングを朝晩10分ずつやっていきました。先生からは1週間分の記録用紙をいただいていて、それを毎週提出していました。3ヶ月もすると、本当に自分でリラックスできるようになり、続いて取り組んだのがイメージトレーニングだったのです。そんなことをしているうちに、試合でもそこそこうまくやれるようになっていきました。

大野先生には大変お世話になりながら、何のお返しもできずに心苦しく思っていました。これはずっと後になってわかったのですが、実は大野先生は1975年に発足した第1回日本スポーツ心理学会で研究発表をされています。演題は、「ある体操選手のイメージトレーニング」です。被験者Sとありますから、これは間違いなく私です(爆笑)。これを見た時、私もちょっとほっとしました。私が良くなったばかりではなくて、少しは先生のお役に立ったことがわかったからです。

恩師、金子明友

結局、私がこの30年ほど大学の教師としてやってきたことは、すべて大学の1年生の時に始まっているんです。これまでお話ししたようにメンタルトレーニングのスタートもそうでしたし、これからお話しする「何をするにもコツがある」というのもそうでした。

すでにお話ししたように、日本の男子体操は1960年ローマのオリンピックで初めて金メダルを取ってから、ローマ・東京・メキシコ・ミュンヘン・モントリオールと5大会連続、およそ20年にわたって金メダルを取り続けました。ですから私が体操選手を志してから選手を辞めるまでの間、日本が世界で負けたということがないんです。そして、その歴代のオリンピックチャンピオンを指導していたのが金子明友という先生です。

金子先生は、私が今ずっと住んでいる福島県の須賀川の出身で、戦後初めて日本が参加した1952年のヘルシンキのオリンピックに代表として出場されました。その時に初めて、ソ連という国がオリンピックに登場してきます。そして一気にアメリカと同じくらい金メダルを取るようになるわけです。体操もソ連がダントツで強かったそうです。その強さを目の当たりにした金子先生は、いつかソ連を倒して世界一になりたいと思われたそうです。それから、8年後のローマオリンピックで日本は初優勝したんです。

そして、その4年後には地元開催の東京オリンピックの開催が決まっていました。当然、世界一になった男子体操には大きな期待が寄せられます。そのノルマは、なんと5つの金メダルだったのです。それまでは「ソ連に追いつき、追い越せ」で初優勝にこぎつけたわけですが、今度はもう手本となる相手がいないわけです。それで金子先生たちがおやりになったのは、世界の誰も真似できない日本独自の必殺技を開発することだったのです。

東京オリンピックの前には、たくさんの必殺技が完成していたそうです。その必殺技にネーミングしてくれという依頼をNHKや三大新聞から受けた金子先生は、「超」という意味のドイツ語「ウルトラ(Ultra)」をつけて、もっとも難しい技という意味で「ウルトラC」と呼んだのです。当時の体操では、難度といって技の難しさをA,B,Cで表していました。この中では、Cが一番難しかったわけですが、それよりもっと難しい技という意味で、「ウルトラC」が出てきたわけです。

東京オリンピックが始まって、日本の男子選手がウルトラCを決めると、テレビのアナウンサーが「決まったウルトラC! 金メダル決定!」と叫ぶわけです。これは50年近く経った今でも、私の耳にこびりついています。そういう意味では、東京オリンピックを境にして、「ウルトラ」は日本語になったわけです。

東京オリンピックが終わってから1年ちょっとした1966年1月。TBSテレビの日曜夜7時30分から「ウルトラQ」という特撮を駆使した怪獣番組が始まりました。この番組を作ったのが、後に「特撮の神様」といわれた円谷英二監督です。そして半年後に円谷監督が登場させるのが、「ウルトラマン」だったのです。面白いことに、円谷監督も金子先生と同じ福島県の須賀川の出身です。

私は金子先生のところで大学4年間、大学院3年間、助手3年間、都合10年勉強させていただきました。そこで徹底的に仕込まれたのは、「人に勝ちたかったら、まずその人のことを徹底的に調べ分析して真似をしろ」でした。でもそれだけでは、勝つこともあれば負けることもあるレベルまでにしか至りません。常勝を目指すためには、世界で誰もやったことのない技を考えたり、トレーニング法を開発しなければならないのです。つまり、「ウルトラ」の発想です。これがないと、この小さな国の日本人が世界に対して勝つことはできないという教えを受けたわけです。

強烈な原体験

私が金子先生の授業をはじめて受けさせていただいたのは、東京教育大学に入学した1972年の10月のことでした。すでに10年近くの体操競技経験があった当時の私にとっては、学校体育の教材だけを行う器械運動の実技は何の負担にもならず、そういう意味では、はじめはけっこう気軽な気持ちで先生の授業にのぞんだように記憶しています。

第1回目の授業はマット運動の前転でした。私たち体操部員は、大柄な柔道部やバスケット部の仲間がいかにもつらそうに回っているのを尻目に、涼しい顔でくるくると前転を繰り返していました。すると金子先生が、「今から白石を、前転ができなくする」と言われるのです。そんなバカな、神様が呪いをかけても前転はできる。そう思っていると、「お前、小さい頃に『前回りではボールのように丸くなれ』と言われなかったか」と問われました。  「はい、言われました」と私。

四角い箱は転がらないが、丸いボールは転がります。誰だって似たようなことを言われた経験があるでしょう。「じゃ、本当にボールのように丸くなってみろ」と先生。  そこで小さく小さく丸く丸くなってみせました。そこまでやってやっと気がついたのです。ボールのように丸くなっただけでは何も起こりません。回るどころか、ピクリとも動けないのです。体操には自信のあった私でさえ、いや私だからこそ誤った常識に縛られていたのです。  文部省の指導要領にも、ボールのように丸くなれと書かれていた時代がありました。小学校の先生たちはボールを持ってきて、子どもたちの前で転がして見せ、そして「いいかい、今日やる前回りは、このボールのように丸くならないと回れないんだよ」というのです。確かにボールは転がりますが、そこにはトリックが(先生自身はトリックだと思っていませんが)あります。ボールは、自分で転がっているのではなく、先生の手の力によって転がされているのです。もしも、ボールのように丸くなって前転しようとするなら、いちいち先生が押さないと動かないし、転がらないということになります。つまり物体は外力を加えることによって運動するのであって、人間が行う運動は、専門用語では「自発性運動」と言いますが、自分たちがエネルギーを発生させて上手に伝えることで成立するわけです。しかし私は18歳のその日まで、これっぽっちもそんなことは考えたことはありませんでした。

ボールのように丸くなったものの、転がることさえできない私に金子先生は、「白石、ここに仰向けに寝て脚を直角に上げろ」と言われました。続いて「僕が今から脚をマットに落とすけど、お腹の力は抜いておけ」と言われ、私の脚をマットに向けて落としました。皆さん何が起こると思いますか。何にも起こらないんです。ただ私のかかとがマットにドンと落ちるだけです。

次に先生は、「足をそろえて、マットから30㎝のところにかかとを上げて、その位置を覚えてから、もう一度天井の方へ足を上げろ」と言われました。それから「今度はもっと強く足を落とすけれど、さっきの30㎝のところで止めろ」と言われたんです。するとあら不思議。足が急速に振り下ろされてマットの上30cmのところで止めようとした途端に、上体がぴゅんと起き上がったではありませんか。仰向けに寝て足を天井に向けて上げているということは、すでに位置エネルギーがあるということです。それがマットの方向に振り下ろされれば運動エネルギーに転化します。しかし、お腹に力を入れていなければ、そのエネルギーはどこにも伝えられることなくかかとがマットに触れた段階で消失します。

ところが30㎝の地点で足を止めようとすると腹筋が一気に締まります。するとそこがジョイントになって運動エネルギーが上体に伝えられ、上半身を起こすことになります。これを運動学では「運動伝導」と呼んでいます。その瞬間に膝を抱え込めば簡単に立ち上がることができます。またその瞬間に足を開けば開脚前転になりますし、前屈して手をつけば伸膝前転はできてしまいます。

この時の体験は強烈でした。その後で、金子先生が前転について説明をされ始めると、私は自分の顔から血の気が失せていくのを感じたのです。小学校の低学年以来、できることなど当り前で、どうしてできるのかなど少しも考えたことのなかった前転について、私はボールのように丸くなれとか、両手を肩幅につけといった類の誤った常識以外には何も知らなかった。前転に必要な技術ポイントについて、完全に無知な自分にいや応なく気づかされたんです。

「できる」ということと「わかっている」ということの間に、これほどの隔たりがあるということもはじめてわかったし、自分でやれるということと他人を教えるということがまったく違うということも、このとき初めて知りました。

さらにまた、運動には必ずそれが合理的にできるための技術というものが存在し、それを使わなければ、たとえオリンピックチャンピオンでも前回りすらできなくなってしまうということも教えていただいたのです。まさに眼からウロコが落ちる思いでした。現在、大学の教師として、またスポーツの指導者として私を支えてくれているのは、このとき受けた強烈な体験に他なりません。

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