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講演録
イベントレポート

第129回紀伊国屋サザンセミナー
会場:紀伊国屋サザンシアター

『夢をかなえるコツ』出版記念講演会 講演録 第一部(3/4)

コーチ人生、スタート

さて続いて、私が選手を辞めてコーチとなった時のことをお話しましょう。1980年の4月に、金子先生に呼ばれ、「白石、お前もそろそろ体操選手としてはいいだろう。この間の八王子での全日本選手権を見たけれど、お前の宙返りはもう駄目だよ。もう辞めて、明日から筑波大学体操部のコーチをやれ」と言われたのです。 東京教育大学(現筑波大学)の体操部は、かつては数多くのゴールドメダリストを輩出し、全日本学生選手権でも七連覇を達成するなどのすばらしい伝統を誇っていました。しかし、1960年代後半に起こった学園紛争のあおりを受け、私が入学する数年前から、部の成績は凋落の一途をたどっていたのです。

私が入学した時の全日本学生選手権などでは、創部以来初の二部転落かと心配されたほどの弱体ぶりで、実に11位という結果に終わっていました。幸い私の同級生の中には、才能のある選手が何人かいましたし、すぐ下の後輩には、後に全日本学生と全日本の両選手権の個人総合チャンピオンとなる三上肇君(現中京大学教授)などがおり、私たちが卒業する頃には、日本体育大学や日本大学に続いて、3位に位置するほどまでにはなっていました。

その後、大学が筑波大学として生まれ変わり、それまで教育大学時代にはなかったスポーツ特別推薦入試制度が導入され、他の私立大学ほどではないにしても、インターハイなどで活躍した選手が筑波大学にも入学するようになっていったのです。練習環境にしても、以前に比べれば信じられないような最新の施設が整えられていました。それでも依然として、筑波大学は優勝争いができずにいたのです。私がコーチになった1980年というのは、全日本学生選手権で最後に団体優勝してからすでに13年が経過していたのです。前の年も5位でした。最高の環境で優秀な選手が集まっているにも関わらず、なぜか勝てなかったのです。

私は金子先生から呼ばれ、コーチを務めるようにと言われた時には、「当時コーチだったオリンピックチャンピオンの加藤澤男さんのお手伝いをして、二軍の選手を指導しろ」という意味だと思っていました。ところが金子先生の意志は、加藤さんの手伝いをして、今年こそ優勝させろというものだったのです。

この時、金子先生からコーチになるにあたって2つのことを言われました。1つ目は「お前は今日から選手の前で体操はやるな」ということです。どうしてだと思いますか。理由は簡単でした。私がたいした体操選手ではなかったからです。先生は言葉を続けて、「お前はやって見せて教えるコーチをやってはならない。日本一や世界一になろうという選手を、そこまでいったこともないお前がやって見せて教えても、しょせんお前ぐらいにしかならないだろう」言うのです。さらに「いいか、やって見せて教えていいのは、加藤澤男君とお前の1つ下の三上肇(現中京大学教授)の二人だけだよ。お前は違うタイプのコーチになるしかない。お前は運動を観察する能力、見抜く能力を鍛える以外にはコーチとしての道はないよ」と言われました。

金子先生は、当時すでに筑波大学の要職についておられましたから、体育館にはせいぜい週に2回ほどしかいらっしゃいませんでした。その時は、まるで大学病院の教授回診のようでした。先生が真ん中に座って私が右側に立ち、加藤澤男さんが左側に立って選手の練習を見るわけです。選手が失敗すると、金子先生が「ちょっとおいで」と呼ぶんです。そしてぱっと私を見て「お前、今彼が失敗したのはどうしてだか理由を言ってみなさい」と言うわけです。私が答えると、「うーん見えないかねぇ。だからこの子たちはうまくいかないんだよ」と叱られるのです。それから先生は、その選手と問答します。罵声を浴びせることもありませんし、叱責することもありません。選手なりに気づいた失敗の原因(自己観察)を聞き出し、ご自分の見抜いた失敗の原因(他者観察)とを照合した後で、一つだけ注意すべきポイント教えるのです。するとたちどころにできてしまうのです。

それはマジック、魔法を見るようでした。いま福島大学では、私の授業は白石マジックといわれています。黙って座ればぴたりと当たるではありませんが、私の器械運動の授業では、当時の金子先生と同じようなことが毎時間起こります。嘘だと思ったら、いつでもおいでになって授業を見てください。コーチとしての心得の一つ目、「運動観察眼を磨け」をこの30年実行したお陰です。

心得の二つ目は、「選手の生活もコーチしろ」ということです。このことについて金子先生は、「東京教育大時代には、あんなにみすぼらしい練習環境でも、また推薦制度もない中でも、オリンピックチャンピオンを続々と輩出してきた。それが筑波大学になって、最新の施設に加えて推薦でインターハイのトップクラスが毎年入学してくるのに、一度も優勝できないのはなぜだと思う?」と私に質問されたのです。私は「推薦で入ってきた日本のトップクラスの学生が、生活の乱れで壊れてしまったからです」と答えました。

「体育館での練習ばかりでなく、生活面もコーチする」これがコーチとしての心得の二つ目だったのです。こうして私のコーチ人生が始まりました。そしてわずか4ヶ月後に行われた全日本学生選手権で、筑波大学は13年ぶりに優勝してしまったのです。そこから筑波大学の体操部に関わって、5年間で3度の日本一を経験させてもらいました。ですから福島大学に移った頃には、私に体操を教えてくださいという人はけっこういましたが、同じように大学1年の頃から勉強してきたメンタルについて、アドバイスを求めてくる人はまだ一人もいませんでした。

ヨーガを活かした指導

自律訓練法から始まった私のメンタルトレーニングの学びは、コーチになって2年目からは坐禅に移行し、1985年からはヨーガへと移っていました。そうしたさまざまなものが蓄積されて、メンタルの勉強を始めてから16年経った1988年に、私に大きな転機が訪れることになります。それは駒澤大学野球部の太田誠監督(当時)との出会いでした。太田監督は当時すでに大学野球界の名伯楽として知られ、教え子には数多くのプロ野球選手がいました。

ふとしたことから太田監督が、私の最初の本の推薦文を書いてくださるということになり初めてお会いしたのです。そこであれこれお話しをしているうちに、監督が「白石さん、あなたが勉強してきたメンタルトレーニングというのを、うちの選手たちに教えてくれないか」と言われたのです。

これがきっかけとなって、駒澤大学の野球部だけではなく、太田監督の教え子である中畑清さん(当時、読売巨人軍)や白井一幸さん(当時、日本ハムファイターズ)などにもメンタルトレーニングの指導をするようになっていったのです。ちょうどこの年、私はラージャ・ヨーガの導師である木村慧心先生(現・日本ヨーガ療法学会理事長)にお会いし、伝統的なヨーガ行法を学び始めていました。先生のご指導のお陰で、私が長年いだいてきた心身をともに調える具体的なトレーニングのやり方が、ようやくはっきりしてきたのです。  例えば白井一幸さんは、指導者となった今でもあれこれやり取りしていますので、もう25年のお付き合いということになります。彼は1983年にドラフト1位で日本ハムに入団し、以来、パリーグのベストナインやゴールデングラブ賞を獲得するなど、すでに一流のプロ野球選手でした。

しかし私と初めて会った時には、左足の骨折と甲状腺の機能障害からその年のシーズンを棒に振った直後で、懸命に復活の手がかりをつかもうとしていたのです。太田監督は私に、「白石さん、私もずいぶん長いこと野球の監督をやってきたが、『頼むから少し練習を休め』と言ったのは、後にも先にも白井ぐらいしかいないんだよ。熱心なのはいいのだが、できればもう少し心にゆとりを持って野球をやってもらいたいと思っているので、あんた話をしてやってくれんか」と言われたのでした。

もしも私がこの時点まで木村先生にお会いできずにいたら、おそらく白井選手を筆頭に、その後続々とやってくるようになるトップレベルの選手の心の問題にアドバイスをするようなことにはならなかったのではないかと思っています。その後、続々とプロアマを問わず、日本のトップアスリートたちが、私の所にメンタル面のサポートを受けるためにやってくるようになり、それは25年経った今でも続いています。

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